おりりんな日々

読書/Kindle/クラシック/ジブン手帳mini

本を読んでも変わらないと言った貴女へ

おはようございます。

ぼくの部屋を訪ねてきた人に、そんなに本を読んでどうするのか、本なんて読んでも変わらないし、変われないじゃないかと詰問されたことがあります。今日はそのことについて考えてみたいと思います。

ぼくはこのブログで、再三「読書メーター」さんを使っていると書いてきました。類は友を呼ぶというのは、たぶん当たりなんだろうと、ここを見ていて思います。ここを使うようになって、まだ二年目程度なので何とも言えないところではありますが、ここしばらくの間、「読書論」とか「教養論」とでもいうべき「ジャンル」が形成されつつあるように思っています。こうした本の感想がUpされていたり、読みたい本として登録されていたりしています。

もちろん、読書好きのみなさんが集まるサイトですから、こうした「ジャンル」へのニーズが一定量あることは当然のことだと思います。しかし、それにしても、という感が強くあります。

本の読み方には、唯一の正解があろうはずがないのに、「読書論」が、こうも読書好きを魅了して止まないのはなぜなんでしょうか。

それは、時代が先行き不透明な「過渡期」だからなんでしょうか。しかしそれには、「過渡期」だなんてことは。ぼくが大学在学中だった30年も前からそう言われ続けていることを出せば足りると思います。変化と危機の度合いが、さらに深まったからなのかもしれません。

ぼくはそうした中で、活字離れという指摘とは裏腹に、「一方で」は読書回帰とでも言うような傾向が出てきているのではないかとも思います。何と言っても、読書には百年単位での歴史があり、地道ではあるものの、確実な自己陶冶の方法の1つであろうからです。

ぼくが読書に期待しているものの1つ(いくつもあるかと言うと、心許ないのですがw)とは、「自分の知らない自分」「出会ったことのない自分」つまり、未知なる自分との出会い、邂逅であろうと思っています。この年齢になると、もう自分なんて凝り固まっていて、(良く)変わる余地なんて残ってないよと思ってしまうのですが、それでも未知の世界との出会いは、即座に知らなかった自分との出会いへと、ぼくを誘います。それは、まだ自分には変わる余地が残されているという喜びと言えるものだと思うのです。つまり、いつだって人間は変われる。その気になれば、「良く」も変われるということだろうと思うのです。ぼくは、そこのとを読書を通じて学んできたように思います。

とまあ、ここまでは第一段落。以下は、ちょっと間を空けて書いた第二段落です。

ここまでは、「変わる」ことが「良いこと」であることを前提に書いてきました。しかし、ぼくにはそれが無前提で良いことというのには疑問を呈したいと思います。つまり、変わろうとすることは、それほど良いことなのかと。

言葉の遊戯かもしれませんが、「変わる」とは現状の否認を前提しています。いま・ここではない、いつか・どこか・誰か・何かを希求することです。このような、否定の契機を含んだ「変わりたい」という欲求は危ういのではないかと思うのです。

つまりは、いま・ここの自分を否定し、ないがしろにすることについては、もう少し慎重であるべきだと思っているということです。

少し大げさな話をします。「変わる」ということについてのイメージ・トレーニングです。

生命という次元から見た「自己」ということを考えてみたいと思います。「生命」とは(なんて振りかぶっていいのかww)、環境(=非自己)と「情報」を交換して、自己同一性を保ちつつ変化していくシステムであるということができるでしょう。ここでいう「情報」とは、物質であることも含みます。

ポイントは、自己同一性ということ。

よくある話ですが、半年前の自分と今の自分とを比べてみると、物質的にはまるで入れ替わっているというではないですか。変化しながら、しかも自己であり続けるというのはそういうことです。

このような「変わる」方法というのがあるのではないかとぼくは思います。今ある自分を否定し、異質なものに変わるのではなくて、アナログ的に「変わる」。もちろん、突然変異ということもありますが、一生命体レベルで見た場合、それは「異物」として免疫システムに退けられてしまうことがまずあって、免疫が迎撃できないと、自己同一性が破壊される、即ち死を意味するわけです。

変わり方、変わろうという方向を間違えると、死に至るというのは大げさかもしれませんが、「自己」に深刻なダメージを与えることがあります。乱暴な例えですが、痩せていない自分を受け入れられずに病的な状態に陥ってしまうことなどです。

すみません、○○とは、こうではないという書き方になってしまいました。○○とは、こうだという書き方を試みますw

以上、書いてみたことは、「変わる」というのにも、「良い変わり方」と「良くない変わり方」というのがあるだろうということで、そのうちの「良くない変わり方」とうのは、今ある自己についての否定の契機を含んでいるものだということです。

そうではない、つまりは「良い」変わり方というのはどういうことか。それを書かないことには、この稿は閉じられません。もう少しお付き合いください。

ぼくはここには、「面白い」とか「楽しい」ということがポイントになってくるだろうとの予感があります。わくわく、どきどき、そわそわ、などの感じです。

この、面白いということについては、確か大岡信さんが書いていたエッセイを思い出すんですね。それは、「面」が「白い」と書くことから、起源を辿ったものであったと記憶しています。この「面」というのは、自分の面ではなくて、相手のことだといいます。相手の顔を照らして明るくする、それが「面白い」ということの起源なんだそうです。自分一人ではなくて、相手を照らす。明るくさせる。

ここからもう一つの援用が導かれます。仏典に、「他人のために灯をともすと、自分の前も明るくなる」という説話があるそうです。これも、他者への働きかけの重要性を説いたものだと思います。

もっとも、これはつまり、自分一人でではなくて、他者と「分かち合う」というほどのことなのではないかと思います。ちょっと力業になりますが、自他ともの相即とでもいうことなのではないでしょうか。

などと書くと、自分も他人もハッピーに変わろう!とに言っているように思われるかもしれませんが、それは不本意というものw もう少し書いてみます。

仏典には、「煩悩即菩提」という言葉があるそうです。平たく言うと、煩悩(悩み)はそのまま菩提(悟り)として開かれるということなんだと思います。また、煩悩を薪として、という言葉もあるようです。これは、悩みや苦しみが深いほど、生の喜びやきらめきを深く味わうことができるということではないでしょうか。

さて、そろそろこの稿も閉じようと思います。

本を読んでも変わらない・変われないという疑問から、では変わることっていいことなの?ということを経て、たぶん、よい変わり方というものもあって、それは面白かったり楽しかったり、自分一人のためではないという契機を含んでいるものだということだろうということを書いてきました。

そこで、もう一度「読書」に立ち返ってみます。ぼくは、意識や感情の下の層には無意識の層があって、さらにその奥には、意志の力とも身体の力ともつかない、未分化な、生命力とでも言わなければならない層があるという考え方に共感しています。

ここで、本を読むという行為は、鍬や鋤で自分の生命を耕すことだと思うという、乱暴なアイディアを持ち出したいと思います。言葉は、生命の層に届くというのがぼくの推論です。

そういった意味で、読書(に代表される、言葉を通した他者との関わり)は自身の生命を耕すことであり、情報を交換しつつ、同一性を保っているという「変わり方」をしている生命の原理にも適うものであるという、大仰な結論に達してしまいました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
























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